HOME相撲漫画@(岡本一平作)
 相撲の稽古 @ 大錦の皮肉
今度は相撲の稽古を思い立ち師匠には大錦卯一郎君を見立てた。何も素人の瘠っぽちを弄って貰うのに斯程の大力士を煩わさんでもよいのである。しかし稽古の始めは大抵抛り出されてばかり居るに決まっている。同じ抛りだされるなら相手が無名の丸太ン棒であるよりは天下の横綱なる方が自尊心を傷つける程度が薄いというものだ。大錦君は巡業の帰路上州高崎に居たのを訪うて志を申し入れた。大錦君が失笑した。それでも承知して湯にも入れて晩飯も一しょに喰をうと言って呉れた。新弟子にしては丁寧過ぎた扱いである。湯殿には雲突く許りの力士が二人、裸に締込みして待ち受けて居た少しギョッとした。湯槽から上がって来る自分を捉へ石鹸を塗り小判型の刷毛で擦り始め自分は体重十五貫ある体格検査でも上の部だが側に相撲取りが寄ると誠に見栄えが無くなる。其のうち背中を共同で洗って居た取的二人がつまらぬ争いを始めた。「ヤーイわれの手をモッとねきへ寄せんかい、邪魔になって洗いやへんわい」「だどい、こんな小っこい背中へ二人かかるのんが阿呆やい、足へ廻れ廻れ」で弟弟子が脚へ廻った。脚とても同様小っこくて洗うところがあらへんわけだ。随って暇潰しに同じ部分を擦る、痛い、それに脚の刷毛は背中の刷毛よりも余程毛が堅相だ。それも其の筈一方のは横綱用の刷毛、一方はお客に使う素人用の刷毛だ。膚の触り具合から考えて此の硬い硬い刷毛を平気で受ける大錦君の皮膚は少なくとも馬より丈夫で無ければならない。

 相撲の稽古 A 横綱と並んで
大錦君の座敷には牛鍋のご馳走を筒袖の取的が二人取賄って居る。「巡業の折はこれ等が女房の役も三太夫の役も按摩の役も一手に引き受けるんです」と大錦君が自慢気に言う。鬼の様な取的君が少しはにかむ。大錦君は下戸で四五杯も猪口を受けると全く紅くなる、それで居て飯もタント食わぬ。牛肉も半斤とは食わずして茶漬を普通茶碗に四杯軽く流し込んだ。残った大部分の牛肉は廊下を隔てた取的の部屋に運ばれた。取的の部屋が俄に賑やかになる。それを眺めて大錦君が嬉しそうに「あの時代には全く収入というものが無いのですから師匠が気を付けて力になる食物をわざと、ああやって残してやるのです。云々今の横綱も残肴の恵みによって育まれた。牛鍋の残りに歓声を挙げるこの未来の横綱達にも幸多かれと祝福してその夜は寝た。翌朝大錦君と並んで二人曳の車で場所入りする。巡業の掟として力士は力量、位置の如何に拘わらず二十八貫以上で無ければ二人曳きを付けぬ規則だ、さすれば十五貫の自分は十三貫だけサバを読んでるわけだ。それでも何でも馬鹿にいい気持ちだ。場所は市内の不動堂境内にある。櫓には型の如くバチ音爽やかに、天下太平、国土安泰の祈りを赤城山の峰の雪に轟かして居る。

 相撲の稽古 B 四股や掛声
木戸を入ると地べたを掘り炉を拵えて一行幹部の年寄達が廻りにあたってる。大錦君は検査役入間川の側へ割り込むや早速鹿爪らしい議論を始めた。稽古の催促すると大錦君が気の毒そうに「実は巡業中の風紀に関する問題が起こったので一寸手を離せぬ誰か代わりにさせますから」と小常陸君と若者頭雷ヶ浦とを呼んで自分を引き渡した。二人は自分を不動堂の庫裡へ連れ込み締込みをさせて呉れた。「上州の空っ風ってそりゃあ寒うごァすぜ」とシャツと股引を着た上普通の取的は五まわりで済む廻しを七廻り延ばしてあとはだらりと尻へ垂らす。いい形じゃ無いその儘土俵に引き出された。雷ヶ浦は角伎の精通者芝居道に於ける新十郎という格だ新弟子を扱う事にかけてこの上は無いという人。傍で仕方を示し教える。土俵にしゃがんで塵を切り、両手を開き掌の裏表を敵手に示すは種も仕掛けもござらぬという意進んで砂を両脇に塗り、四股を踏む。上体は真っ直にして足だけ高くあげよ。眼は一間先の土俵を見よ。砂を蹴る気持ちで脚を踏み下ろす時必ず足先よりせよ。踵は不可、踏んだ拍子に「ハッシ―」といえ云々。それが中々巧く行かないので散々繰り返す。此の時既に場内に満員の高崎の角狂連怪訝な顔をしてそろそろ湧き始めた。

 相撲の稽古 C 三人相撲
見物の声として「芝居の鼠ィ!しっかり頼むぞ」というのがある。シャツと股引の縫ぐるみに締込みの尾を垂らし居る自分に対しての評である。又「小常陸ィ、助太刀も遣っちまえ」というのがある。雷ヶ浦を自分の助太刀と認めての評である。聞こえるかして向かい合う小常陸君の臍がクックッと笑う、誠に気が入らぬ。仕切り方は愈々以て難しい。腰を割って膝に力を入れる。両掌は軽く軽く握り広からず狭からず地に置く。顎を思いきって引き、額越しに敵の眼を見る。素人は眼玉の筋が延びて無いから見えぬ。慣れると伊勢関の様なお出額でも額越しに見える。関取に打突るを鉄砲と称して居る。相撲道の言葉に「押せば押せ引かば押せ押すに手段なし」とあり押し方一つだ「両肘を堅く両脇につける。隙くものは常に小石を挟んで慣らす、足並みよく進んで額を関取の右肩へ持って行く。」と以上右の実際を雷ヶ浦は小常陸君と協力して予の身体の上に施した。自分は雷ヶ浦の力で木偶の如く取り扱はれ最後に頭を小常陸君の右肩へトンと打突けられた。頭は暫く肉の中に埋まり頓て弾ね返される時呼吸をすっかり切らした。兎に角これだけでも独立して出来る迄には半年以上かかる。鉄砲の卒業は三段目以上がと聞いて打ちきりにした。小常陸君の部屋で昼飯を喰う。御馳走は葱鮪だ。国ヶ岩君が香を嗅ぎつけて「一杯饗んで呉れ」と入って来た。「これじゃ食えんからのう」と差し出す賄いの上には塩鮭が一片れ侘びしく載ってあった。

 怪物取組書譜 @(出羽ヶ嶽その日その日)
つまらなくて、だれた国技館の中にただ一つ、
つまって吃驚するものがある。
それは幕下二枚目、出羽ヶ嶽君の巨躯だ。
彼は身長六尺五寸、体重四十二貫あるそうな。
象のような身体を猫背にして
勝っても負けても海豚のような
細い眼は柔らかく眠ってる。
四十八手の裏表も彼に対しては桁が外れる。
世の中で呆れる事が好きな人の為にも
この怪物の毎日の取り組み振りを紹介しよう。
今日は楢錦にこんな風に負けた。

 怪物取組書譜 A
この日の相手、雷ヶ梅も六尺豊かな長身、
但しその太さに於て出羽君とは
西洋のマカロニとそうめん程の相違がある。
わがマカロニ関はそうめん関に右筈で押し行かれ
土俵の剣ヶ峰で危険迫ると悟っても
相手の突き離そうとする状、
恰も「オイ、君、離して呉れてはどうだね。
そう押すとおれはひょっとすると
土俵の外へ出て仕舞うかもしれないよ」という如し、
悠揚として居る。そのうち彼の両足は持ち主の身の安泰を図り
土俵の外へバランスを取りに出る。

 怪物取組書譜 B
相手の朝ノ森はまったの多い力士。
出羽君もあまり立ちの早い方では無い。
そこで何遍か仕切り直す。その度に、大きな袋のような身体を
ぐだらぐだら揺すって恰度子供が
嫌いなお湯に入れられる時のような
渋った態度で土俵を上下する。取組は二本差しの朝ノ森を
カンヌキでためてるうち左外掛けで押し倒される。

 怪物取組書譜 C
この日は出羽君大出来である。
江戸崎がかかって来るを閂で締めつけ、
どうやらきめ出して仕舞った。
戦うのにいつも相手の背に釣り合うよう
身体をくの字に曲げて相撲はねばならぬから
彼怪物はいつも、身体の半分の力しか使えぬように見える。

 怪物取組書譜 D
今日は出羽君の取組みは休みだ。梅雨を催す小雨の日。
恐らく怪物は部屋に居て弟子達に身体を揉ましているに違いない。
十両の事ゆえ、こんなに多勢弟子は居ないかも知れない。
又湯呑みを担いでいで運ぶ図柄もあまり馬鹿馬鹿しいようだが、
彼怪物の休息図を想像するとどうしてもこの冗談をつけたくなる
この意味に於いて冗談は真実になる。

 怪物取組書譜 E
相手の陸奥ノ花もそんなに細かい力士ではないが
出羽に向かって仕切ると四階見物より
「小さいのーイ、確かりしろ」と怒鳴られる。
怪物の前に出るとどの力士も固有名詞を失い
一番に小さい力士として
概念化されて仕舞うらしい。
仕切り中に陸奥に注文あり二度怪物の
左手に取り付きとったりの気を見せる。
渾身の力にても、引っ張られても貧乏揺すりもせず
微笑学上の定理は応用されぬ。


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