今度は相撲の稽古を思い立ち師匠には大錦卯一郎君を見立てた。何も素人の瘠っぽちを弄って貰うのに斯程の大力士を煩わさんでもよいのである。しかし稽古の始めは大抵抛り出されてばかり居るに決まっている。同じ抛りだされるなら相手が無名の丸太ン棒であるよりは天下の横綱なる方が自尊心を傷つける程度が薄いというものだ。大錦君は巡業の帰路上州高崎に居たのを訪うて志を申し入れた。大錦君が失笑した。それでも承知して湯にも入れて晩飯も一しょに喰をうと言って呉れた。新弟子にしては丁寧過ぎた扱いである。湯殿には雲突く許りの力士が二人、裸に締込みして待ち受けて居た少しギョッとした。湯槽から上がって来る自分を捉へ石鹸を塗り小判型の刷毛で擦り始め自分は体重十五貫ある体格検査でも上の部だが側に相撲取りが寄ると誠に見栄えが無くなる。其のうち背中を共同で洗って居た取的二人がつまらぬ争いを始めた。「ヤーイわれの手をモッとねきへ寄せんかい、邪魔になって洗いやへんわい」「だどい、こんな小っこい背中へ二人かかるのんが阿呆やい、足へ廻れ廻れ」で弟弟子が脚へ廻った。脚とても同様小っこくて洗うところがあらへんわけだ。随って暇潰しに同じ部分を擦る、痛い、それに脚の刷毛は背中の刷毛よりも余程毛が堅相だ。それも其の筈一方のは横綱用の刷毛、一方はお客に使う素人用の刷毛だ。膚の触り具合から考えて此の硬い硬い刷毛を平気で受ける大錦君の皮膚は少なくとも馬より丈夫で無ければならない。 |
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